私が携わっていたのは、一般的に工芸屋と呼ばれている技術職です。

と言っても、彫刻家や陶芸家のように、工房などに籠もって作品を作り出すのではなく、自ら現場に出向いて作業をする、いわゆる職人仕事の部類に入るものでした。

具体的には、高校や大学、病院などのさまざまな研究施設に、専用の研究机や、ドラフトチャンバーという大型の実験用装置を据え付けるという仕事です。

当時まだ二十歳前だった私は、親の紹介で始めたこの仕事に対し、最初からいい印象がありませんでした。と言うのも、私は幼い頃から図面を見たり、工作をしたりといったことが大の苦手だったからです。

プラモデルの類も作ったことがないほど、そうしたものを避けてきた私が、なぜ毎日大きな工作をするような仕事に就いたのかというと、単純に他の仕事よりも少しだけ給料がよかったからでした。

しかし、それは裏を返せば、仕事の内容が通常よりも過酷であるということに他なりません。

実際、工芸屋の仕事は思っていたよりも遥かに厳しく、特に下働きだった私の作業内容は、そのほとんどが力仕事と掃除といったものでした。

確かに、工芸屋の仕事は誰もが簡単に習得できるほど甘いものではなく、一人前になるには相当な年月がかかるものです。

ですが、まだ若かった私は、いまの状況でも耐え難いのに、仮に一人前になったとしても、結局大嫌いな工作をやり続ける毎日が待っているとしか思えず、いつまで経っても真剣に仕事に打ち込もうとしなかったのです。

それでも二年近くその場所を離れなかったのは、自分なりに少しずつ日々の作業に慣れていき、多少なりとも仕事に対する姿勢が変わっていたのかもしれません。

しかし、転機は突然訪れました。

ある日、私たちの会社が、親会社から海外出張を命じられたのです。行き先は中東のとある開発途上国で、期間は取りあえず半年間。しかも、その後も断続的に続く可能性があるとの話でしたので、それを伝えられた私は完全に拒絶反応を起こしてしまったのです。

仕事の性質上、それまでにも出張は少なくなかったのですが、長くても半月、もちろん国内だけでしたので、逆に楽しみにしていたくらいでした。

ですが、今回はまるで違う話です。そもそも海外に出たことなどなかった私にとって、中東の国など地図上のどこに存在するのかさえわかりません。

当然、金銭面ではかなり優遇されるという話でしたが、当時の私にとって、そんなことは二の次でした。私にとってもっとも大事なことは、半年もの長い時間、つき合っている彼女に会えなくなることと、友達に会えなくなることです。

この不測の事態に直面した私に許された唯一の解決法は、仕事を辞めることだけでした。こうして私はそこから逃げ出すように離れていったのです。

あれから長い歳月が過ぎた今、あのときのことを振り返ってみると、自分でも不思議なくらいにまったく違う考えが生じていることがわかります。

まず最初に思うのは、なぜ取りあえず半年くらいは我慢しようと考えなかったのか、ということです。立場によって考えも違うでしょうが、現在の私ならば、半年の海外出張は人生の中で特別な経験をするまたとない機会だととらえます。

まして、金銭的にも優遇されるのであれば、そのくらいの期間、我慢することなどなんでもないことです。むしろ、自ら手を挙げてでも行くべきであったという気さえします。

現在、あのころの私と同じように、仕事で悩んでいる方へアドバイスができるとしたらこれだけです。

人生の岐路に立っていると感じたとき、どの道を選択したとしても、最終的にそれが最良だったのかどうかは誰にもわからないということです。

私はその後、まったく違う仕事に就き、つき合っていた彼女と結婚し、子供も産まれました。そして現在、その会社はなくなり、私は離婚をして独り身になっています。

あのとき、海外へ行く決断を下していれば、いまでもその仕事を続け、彼女と結婚することもなく、当然、離婚も経験しなかったかもしれません。あるいは、それ以前に早々と異国で命を落としていたのかもしれません。

選ばなかった道の先を考えてみたところで、なんの意味もないことでしょう。とはいえ、そのときはそこまで深く考えることなどできないだけでなく、違う道があることすら気づかない可能性が高いのです。

自分の選択が最良だったのかどうか、現時点では当然、判断できる状況にありません。

ただ、どうせわからずに終わるのならば、自分が本当に行きたい方向へ進むという考えだけは、正しい判断だと信じて生きています。